脳外科医 福島孝徳先生 まとめ

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産経新聞|【100年の森 明治神宮物語】復興(5)よみがえった威容 新時代へ船出

      2023/12/31

仮殿から御霊代を遷す本殿遷座祭遷御の儀の様子

仮殿から御霊代を遷す本殿遷座祭遷御の儀の様子。右側は参列者 =昭和33年10月31日(明治神宮提供)

社殿が再建された明治神宮で、昭和33年10月31日に執り行われた本殿遷座祭遷御(せんざさいせんぎょ)の儀には、全国から6千人余りが参列した。明治神宮復興奉賛会の会員や大口の寄付者、経済団体幹部ら復興を支えた人々が見守る中、午後8時から儀式は厳かに始まった。空襲によって主要社殿が焼失した夜から、13年半が過ぎていた。

参列者の中に、儀式の様子に目を見張る16歳の少年がいた。

「ちょうどいい星空でした。赤い装束の皆さん(神職)が、暗闇の中で、仮殿から本殿へ御霊代(みたましろ)を遷(うつ)すのが見えるんです。父がどこにいるかは、すぐに分かりましたよ。背が高かったので」

少年は、脳神経外科医として国内外で活躍する福島孝徳さん(77)。父親は、当時47歳で後に明治神宮宮司となる福島信義禰宜(ねぎ)だ。空襲の夜、消火に奔走し、御霊代がある御宝庫に火が迫るのを見て、緊急の遷御を進言した人物でもある。

予算6億、寄付集め奔走

信義さんは神職の傍ら、28年7月に設けられた復興奉賛会の事務局長を務め、30年には臨時造営部総務課長に就くなど復興に向けた事務を担った。最大の課題は、6億円と算定された復興予算の調達だった。国家から切り離された明治神宮は、これを主に寄付でまかなうしかない。

財界の法人募金が1億5千万円、都内の各世帯から1億5千万円、全国道府県市町村の世帯から3億円の寄付を集める方針が決まった。しかし、当時は各地の氏神神社の復興や公共施設の建設など複数の募金運動が並行し、地方でも風水害が相次ぐなどの悪条件が重なり、「奉賛運動の前途は容易ならぬものがあった」(「明治神宮五十年誌」)という。
などの感想がありました。

この経験を活かして,夢に向かって頑張ってくださいね!

孝徳さんは、父親がふとこぼした言葉を今も覚えている。

「自分は神職なのに、物乞いをやっているんだよ」

しかし、企業や個人に奉賛の輪は確実に広がっていった。

信義さんは英語が堪能で、身長も180センチ以上あり、連合国軍総司令部(GHQ)との交流の場にも出席した。孝徳さんにとっては「明治神宮への奉仕を最優先し、家庭を後回しにする父」だったが、「遷御の儀は素晴らしかった。父の偉大さを感じました」と当時の感動をかみしめる。手術の際に白足袋を履き、神様に手を合わせるなど、分野は違えど父親の姿勢を受け継いでいる。

福島信義さん(中央、明治神宮提供)

福島信義さん(中央、明治神宮提供)

国民の神社として歩む

現在の中島精太郎宮司(74)は「謙虚でマナーに厳しい方だったが、社務所では『みんな神様の方ばかり向いて仲間の顔を見ていない』と趣味のクラブを作らせるなど、人間味も豊かだった」と信義さんをしのぶ。

社殿炎上から敗戦、占領、そして復興。中島宮司は「神道指令を境に、国家公務員に近かった神職の立場は大きく変わり、お供え物さえ自分たちで畑を耕し調達する苦しい状況で、社殿の復興も進めなければならなかった。大変な苦労であり、当時の鷹司(たかつかさ)信輔宮司を筆頭に、明治生まれで戦中を生き抜いた人たちだからこそできたのだと思う」と語る。

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